華麗な王者モハメド・アリと、そのアリになれなかった男|沢木耕太郎の名著『敗れざる者たち』と『一瞬の夏』を再読する
2016年6月4日、プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリが74歳の人生に幕を閉じた(NHKニュース)。米国オバマ大統領も哀悼の意を表明するなど、世界中のメディアが大きく報道したアリの死去。
1960年のローマ五輪で金メダルを獲得後にプロに転じ、1964年にヘビー級王座につく。ただデカく重いのではなく、ヘビー級ボクシングにスピードを持ち込んだその革命的な戦い方は「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と表現された。しかし、ベトナム戦争の徴兵を拒否したことで世界タイトルを剥奪され、その後米国政府と長きにわたって争ってきた。
一方で、今もボクシング界に燦然と輝くのが1974年の「キンシャサの奇跡」。当時のWBA・WBC世界統一ヘビー級王座のジョージ・フォアマンにモハメド・アリが挑んだタイトルマッチは、圧倒的不利との下馬評を覆し、アリが大逆転勝利をおさめた。そんなモハメド・アリの数々の偉業を、僕はなにひとつ知らない。

(Photo by Cliff)
僕がアリを生中継で見たのは、今から20年前の1996年アトランタ五輪の開幕式くらいである。当時すでにパーキンソン病を患っており、彼が震える手で聖火台に点灯したのを、今もはっきりと覚えている。それを機にアリの人生を知ることになったのだが、しかし同世代に生きていないということは、彼が世界に与えたインパクトを実感するのが難しいということでもあった。
そんな僕にとって、モハメド・アリの凄さを初めて自分の目の当たりにしたのが、沢木耕太郎のノンフィクションだったのだと思う。短編集『敗れざる者たち』に収録された「クレイになれなかった男」がそれである。元東洋ミドル級王者のカシアス内藤(本名:内藤純一)のリングネーム「カシアス」が、カシアス・クレイに由来しているということ、そしてそのカシアス・クレイこそが、イスラム教に改宗する前のモハメド・アリの本名だということを初めて知り、少なからぬ衝撃を受けたのである。
いつか自分もモハメド・アリと同じような華麗な王者となり、ボクシングの栄光を手にしたいと渇望していたカシアス内藤だったが、しかし彼にはその「いつか」は来なかった。それでは果たして彼はボクシングに負け、人生に敗れたのだろうか?その問いに真摯に向き合い、カシアス内藤に寄り添う沢木耕太郎が出した答えが、書名にあるとおり、内藤もまた「敗れざる者」だったということなのだ。
誰も彼もがスポットライトを浴びるわけではない。そして皆がいずれは下り坂を迎えることになる。そんなとき、自分の気持ちにどう折り合いをつけるのか。主役に隠れて目立つことはなかった日陰のスポーツ選手に光を当て、その心境に静かに迫った本作『敗れざる者たち』は、ノンフィクションの名手・沢木耕太郎の数多くの著作の中でも傑出した一冊である。モハメド・アリという、20世紀の歴史に残る人物が亡くなった今、彼がいかに多くの後進に多大なインパクトを与えてきたのかを知るという意味でも、再度読み返したいノンフィクションである。
そしてもう一冊この機会に再読したいのは、同じく沢木耕太郎が、ふたたびカシアス内藤に密着した『一瞬の夏』である。
強打をうたわれた元東洋ミドル級王者カシアス内藤。当時駆けだしのルポライターだった“私”は、彼の選手生命の無残な終りを見た。その彼が、四年ぶりに再起する。再び栄光を夢みる元チャンピオン、手を貸す老トレーナー、見守る若きカメラマン、そしてプロモーターとして関わる“私”。一度は挫折した悲運のボクサーのカムバックに、男たちは夢を託し、人生を賭けた。
ノンフィクション・ライターの沢木にとって、カシアス内藤はルポルタージュの取材対象であったはずだ。それなのに “私” は、いつの間にかさらに熱を上げて彼に肩入れし、ついには復帰戦のプロモーターとして関わることになる。そのことに “私” 自身がときに戸惑い躊躇してきた。しかし最終的に一歩を踏み出してしまったのは、カシアス内藤という、モハメド・アリに憧れ、しかし同じような栄冠を手にすることが出来なかった極東のプロボクサーに、誰しもが直面せざるを得ない人生の儚さと切なさを感じたからである。
カシアス内藤のボクシングに自らの人生を投影する沢木の筆致からは、彼の他のノンフィクション作品からは感じられない熱量が伝わり、だからこそ、それがそのまま読者にとっても自らの人生を写し出す鏡となるのだろう。人生はつらく、つらくない人生などない。しかしそうやってしか生きられないのだと、カシアス内藤の老いた拳が語りかける。
モハメド・アリは確かに世界のスーパースターであり、歴史に名前を刻んだ。しかし誰が、アリを勝者で、カシアス内藤を敗者だと言えるのだろうか。アリにとっても敗北が続いた人生であり、カシアス内藤にもときには勝ちがある人生であっただろう。前著『敗れざる者たち』に比べて遥かに熱くファイトする沢木耕太郎のこのノンフィクションは、他人にこれだけのインパクトを与えたという点で、カシアス内藤もアリにも匹敵するほどに、自分の足跡を間違いなく次の世代に伝えていることの証である。この沢木の名作中の名作を、アリが亡くなったというボクシングの一つの歴史が幕を閉じた今、ぜひもっと多くの人に読んで欲しいと願っている。
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