*

華麗な王者モハメド・アリと、そのアリになれなかった男|沢木耕太郎の名著『敗れざる者たち』と『一瞬の夏』を再読する

公開日: : 最終更新日:2016/12/26 オススメ書籍, ニュース

2016年6月4日、プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリが74歳の人生に幕を閉じた(NHKニュース)。米国オバマ大統領も哀悼の意を表明するなど、世界中のメディアが大きく報道したアリの死去。

 

1960年のローマ五輪で金メダルを獲得後にプロに転じ、1964年にヘビー級王座につく。ただデカく重いのではなく、ヘビー級ボクシングにスピードを持ち込んだその革命的な戦い方は「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と表現された。しかし、ベトナム戦争の徴兵を拒否したことで世界タイトルを剥奪され、その後米国政府と長きにわたって争ってきた。

 

一方で、今もボクシング界に燦然と輝くのが1974年の「キンシャサの奇跡」。当時のWBA・WBC世界統一ヘビー級王座のジョージ・フォアマンにモハメド・アリが挑んだタイトルマッチは、圧倒的不利との下馬評を覆し、アリが大逆転勝利をおさめた。そんなモハメド・アリの数々の偉業を、僕はなにひとつ知らない。

 

4438857719_bacb05ea1c_z

(Photo by Cliff

 

僕がアリを生中継で見たのは、今から20年前の1996年アトランタ五輪の開幕式くらいである。当時すでにパーキンソン病を患っており、彼が震える手で聖火台に点灯したのを、今もはっきりと覚えている。それを機にアリの人生を知ることになったのだが、しかし同世代に生きていないということは、彼が世界に与えたインパクトを実感するのが難しいということでもあった。

 

そんな僕にとって、モハメド・アリの凄さを初めて自分の目の当たりにしたのが、沢木耕太郎のノンフィクションだったのだと思う。短編集『敗れざる者たち』に収録された「クレイになれなかった男」がそれである。元東洋ミドル級王者のカシアス内藤(本名:内藤純一)のリングネーム「カシアス」が、カシアス・クレイに由来しているということ、そしてそのカシアス・クレイこそが、イスラム教に改宗する前のモハメド・アリの本名だということを初めて知り、少なからぬ衝撃を受けたのである。

 

いつか自分もモハメド・アリと同じような華麗な王者となり、ボクシングの栄光を手にしたいと渇望していたカシアス内藤だったが、しかし彼にはその「いつか」は来なかった。それでは果たして彼はボクシングに負け、人生に敗れたのだろうか?その問いに真摯に向き合い、カシアス内藤に寄り添う沢木耕太郎が出した答えが、書名にあるとおり、内藤もまた「敗れざる者」だったということなのだ。

 

誰も彼もがスポットライトを浴びるわけではない。そして皆がいずれは下り坂を迎えることになる。そんなとき、自分の気持ちにどう折り合いをつけるのか。主役に隠れて目立つことはなかった日陰のスポーツ選手に光を当て、その心境に静かに迫った本作『敗れざる者たち』は、ノンフィクションの名手・沢木耕太郎の数多くの著作の中でも傑出した一冊である。モハメド・アリという、20世紀の歴史に残る人物が亡くなった今、彼がいかに多くの後進に多大なインパクトを与えてきたのかを知るという意味でも、再度読み返したいノンフィクションである。

 

 

そしてもう一冊この機会に再読したいのは、同じく沢木耕太郎が、ふたたびカシアス内藤に密着した『一瞬の夏』である。

強打をうたわれた元東洋ミドル級王者カシアス内藤。当時駆けだしのルポライターだった“私”は、彼の選手生命の無残な終りを見た。その彼が、四年ぶりに再起する。再び栄光を夢みる元チャンピオン、手を貸す老トレーナー、見守る若きカメラマン、そしてプロモーターとして関わる“私”。一度は挫折した悲運のボクサーのカムバックに、男たちは夢を託し、人生を賭けた。

 

ノンフィクション・ライターの沢木にとって、カシアス内藤はルポルタージュの取材対象であったはずだ。それなのに “私” は、いつの間にかさらに熱を上げて彼に肩入れし、ついには復帰戦のプロモーターとして関わることになる。そのことに “私” 自身がときに戸惑い躊躇してきた。しかし最終的に一歩を踏み出してしまったのは、カシアス内藤という、モハメド・アリに憧れ、しかし同じような栄冠を手にすることが出来なかった極東のプロボクサーに、誰しもが直面せざるを得ない人生の儚さと切なさを感じたからである。

 

カシアス内藤のボクシングに自らの人生を投影する沢木の筆致からは、彼の他のノンフィクション作品からは感じられない熱量が伝わり、だからこそ、それがそのまま読者にとっても自らの人生を写し出す鏡となるのだろう。人生はつらく、つらくない人生などない。しかしそうやってしか生きられないのだと、カシアス内藤の老いた拳が語りかける。

 

モハメド・アリは確かに世界のスーパースターであり、歴史に名前を刻んだ。しかし誰が、アリを勝者で、カシアス内藤を敗者だと言えるのだろうか。アリにとっても敗北が続いた人生であり、カシアス内藤にもときには勝ちがある人生であっただろう。前著『敗れざる者たち』に比べて遥かに熱くファイトする沢木耕太郎のこのノンフィクションは、他人にこれだけのインパクトを与えたという点で、カシアス内藤もアリにも匹敵するほどに、自分の足跡を間違いなく次の世代に伝えていることの証である。この沢木の名作中の名作を、アリが亡くなったというボクシングの一つの歴史が幕を閉じた今、ぜひもっと多くの人に読んで欲しいと願っている。

 

 

Amazon Campaign

follow us in feedly

関連記事

米国Amazon.com が公表する、アメリカとカナダの Most Well-Read Cities

毎年恒例となった、Amazon.com (および Amazon.ca)が発表する "Most Wel

記事を読む

kuzushi shougi

最年少プロ棋士・藤井聡太とAI将棋の時代|人工知能が切り拓く新たな地平

ついにストップした藤井聡太四段の連勝記録。しかし、史上最年少でプロ棋士となってから、これまで29連勝

記事を読む

2015年ことしの漢字は「安」|それでは英語や中国語やドイツ語の一文字は何でしょう?

毎年12月に京都・清水寺で発表される「今年の漢字」に、2015年は「安」が選ばれた(2位は「爆」)。

記事を読む

2016年のベストセラー書籍トップ10冊

2016年も残すところあとわずか。それでは今年も本ブログを通じてのベストセラー書籍を上位10点紹介し

記事を読む

卒業・進級・入学おめでとう|大人になったら自分にベストの国語辞典を自ら選ぼう

桜満開・春爛漫のこの時期、これほどまでに卒業・入学に相応しいシーズンがあるだろうか。日本では今後も秋

記事を読む

football coach economics

サッカー監督の経済学:シメオネ率いるアトレチコ・マドリードの躍進

スポーツ選手の成績は数字に如実に表れる。野球の野手なら打率や本塁打数、投手なら奪三振数や防御率といっ

記事を読む

『ゼロ・トゥ・ワン』のティールと米国社会の変容『綻びゆくアメリカ』

米国の著名投資家ピーター・ティールが著した『ゼロ・トゥ・ワン―君はゼロから何を生み出せるか』が、「今

記事を読む

人間はアンドロイドになれるか|ロボット工学者・石黒浩の最後の講義

大学教授が定年退官の前に行う授業、それがこれまでの「最後の講義」だった。しかしそれを文字通り、自分が

記事を読む

山に登るということ:登山と遭難とそして救助

2008年のマンガ大賞にも選ばれた、山岳漫画『岳』。いまさら言うまでもないが、これものすごく胸を打つ

記事を読む

アメリカで最もお世話になったあの老夫婦がこの夏日本にやって来る

僕が米国留学で一番お世話になったのは、ひょっとすると大学院の指導教授ではなく、むしろアカデミックとは

記事を読む

Amazon Campaign

Amazon Campaign

NHK「最後の講義」物理学者・村山斉を見逃すな

先日のNHK「最後の講義」みうらじゅんが圧倒的に面白かったのは既にお伝

NHK「最後の講義:みうらじゅんの幸福論」が面白すぎた

2/2(土)に放送されたNHK「最後の講義」に登場した、みうらじゅん。

今年も確定申告の時期がやってきた|便利なクラウド会計で手続きを簡略化

さて、2019年もあっという間に12分の1が過ぎ、早2月を迎えた。それ

錦織圭の死闘|全豪オープンテニスが面白い

今年の全豪オープンテニスがめちゃくちゃ盛り上がってますね。観ましたか、

若き探検作家・角幡唯介の「極夜行」は最悪の旅だからこそ最高のノンフィクション

探検家・角幡唯介のノンフィクション作品を読んだことがある人も多いことだ

箱根駅伝「幻の区間賞」と関東学連チーム出場の是非

来年もまた正月から箱根駅伝にくぎ付けとなってしまう、そんな人も多くいる

打倒青山学院|来年の箱根駅伝をもっと面白くするこの5冊

青山学院の5連覇がかかる来年の箱根駅伝、僕もまた正月の2日間テレビの前

若い読者のための経済学史と哲学史

米国イェール大学出版局の "A Little History" は、歴

PAGE TOP ↑